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・「少年っぽい」という「ほめことば」があります。
 こう言われることを、
 よろこぶ人もいるかもしれないですが、
 それも、せめて30歳までじゃないかと思います。
 
 少年のようだと思われている瑞々しい感性も、
 少年のようだということになっている純粋な心も、
 実はおとなの男は、冷凍庫にしまってあります。

 しまいこまないで出しておけばいい、と
 思われるかもしれませんが、そうはいかない。
 下唇を血が出るほど噛みしめ、
 わなわな震えているような心のままでは、
 じぶんが生きていけないだけではなく、
 他の誰かの食いものを取りに行くこともできません。
 生きていくということは、すり傷切り傷、打撲に打身、
 できものに腹痛、風邪に頭痛‥‥ひっきりなしですから。
 「んなものは、へっちゃらだ」というような強がりや、
 笑われるような鈍感さへの修練が必要なのです。
 
 このごろの女性なら膝を打ってくれるかもしれませんが、
 おとなになって、じぶんの足で立つということは、
 「おやじの技術」を身につけることでもあります。
 だからって、無礼とか傲岸になるのとはちがいます。
 じぶんのなかの感じ過ぎる心を、
 「ああ、これは感じすぎている」と知って生きること。
 純粋さをコントロールすることだと思うのです。
 
 それなりの年齢になっても
 「少年っぽい」と言われることは、
 心の震えが見透かされているということでもあります。
 まだまだ、誰かに「つかまり立ち」していたいんだな、
 というふうに見えているのだと思うのです。

ほぼ日刊イトイ新聞 今日のダーリンより

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・「わるいことを成功させる」のは、難しいものです。
 ま、ものすごく穏便な例を出すならば、
 野球の「盗塁」というものは、
 (相手にとっての)「わるいこと」です。
 「盗塁するぞ、盗塁するぞ」と言うだけなら簡単ですが、
 ほんとうに盗塁を成功させるのは、難しいですよね。
 
 昔のマンガやら、落語やらには、
 よく「どろぼう」というやつらが登場します。
 ほっかむりをして、口のまわりのひげが濃くて、
 大きな風呂敷を背負ったおっさんね。
 これにしたって、実際にやるとなったら大仕事です。
 どろぼうを贔屓するわけではありませんが、これも、
 ふつうに働いたほうがよっぽどラク、というくらいの、
 めんどくさい大仕事なんじゃないかなぁ。
 
 ドラマのなかでは、人が殺されたり、だまされたり、
 物騒なことがよく起こりますけれど、
 ほんとうによくよく想像してみると、
 犯人の側の身体的、精神的な仕事の質量というのは、
 並大抵じゃないと思いますよ。
 ドラマの悪役って、不必要に大笑いとかしているから、
 お気楽な商売だと思われるかもしれないけれど、
 「代わりにやってみろよ」ということになったら、
 たいていの人は、倫理とかの問題を持ち出すまでもなく、
 「やめときます」と言うでしょう。
 
 いいことだって、ふつうのことだって、
 実際にやるのは、ちっとも簡単じゃないですよ。
 簡単なのは、「言ってるだけ」の人だけです。
 「わるいこと」「いいこと」「ふつうのこと」、
 どれもぜんぶ、なかなか難しいものなんです。
 「言うだけ」だったら、なんとでもなるのにねぇ。

 「けしからん。ああせい、こうせい」「こうしてやる」
 責任もなくて、実現しなくてもいいのだったら、
 それこそ「命をかけて」とかも、言い放題です。
 ぼくらの見ているインターネットの世界って、
 そういう「言うだけ空間」になりやすいんですよね。
 『ネットの発言、8割引』ってことばを、考えました。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ネットで言うことと、現実で言うことを同じにしたいです。

ほぼ日刊イトイ新聞 「今日のダーリン」より

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・野球やら、女子サッカーやら、
アイススケートやらの結果が知りたくて、
スポーツ番組を見ていました。
そしたら、WBA世界スーパーフライ級王者である
清水智信選手の特集があったのです。

清水選手といえば、
ラーメン店勤務のチャンピオンとしても有名ですが、
そういうことは、とりあえずおいといてですね、
こういうセリフがあったんです。
「そのときまで、感謝するべき人のことを忘れていた。
彼女はどんなときでも、いつも笑顔でいてくれた」
つまり、これは、彼の奥さんのことなんです。
じぶんを大切に思ってくれる奥さんのことを、
同じように大切にできていなかったという反省でした。

そのセリフのあと、奥さんの映像が何度も出てきました。
それがね、「いつも笑顔でいてくれた」って、
よくある言い方みたいだけれど、
ほんとに「いつも笑顔」だったんですよ!
なんの関係もないぼくが、驚いてしまったわけです。
この人は、ほんとに、実際、まったく、
事実として「いつも笑顔」だったんだ!
世界チャンピオンになる人も素晴しいかもしれないけど、
その人の苦難の道をいっしょに歩みながら、
「いつも笑顔」を見せていた人は、もっと素晴しいです。

高校野球、春のセンバツでも、21世紀枠で出場した
石巻工の阿部主将は「感動、勇気、笑顔を見せましょう」と、
選手宣誓で約束したのでした。
そして、チームのみんなが、
ほんとうに笑顔のプレイを見せてくれていた。

「いつも笑顔」って、ぼくは表現のひとつだと、
勝手に決めつけていました。
でも、それは、ぼくがまちがっていたんですね。
「いつも笑顔」の人は、実際にいたわけですし、
「いつも笑顔」の高校生たちも、試合をしていました。
「いつも笑顔」ってできるんだよと、じぶんに教えます。
いま、せめて、口角をあげて原稿を書き終えます。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
大人になるにつれて不機嫌な顔になるって、ヘンですよね。

ほぼ日刊イトイ新聞-今日のダーリン20120402

(Source: 1101.com)

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・なんにでも「口説く側」と「口説かれる側」があってね、
 ちょっと、「口説く側」のほうが強そうに見えるんだ。
 先生と生徒がいる教室だったら、
 えらそうに見える先生のほうが「口説く側」だ。
 ある授業をして、生徒たちに
 なにかを知ってもらわなきゃならないからね。
 生徒のほうは、つまり、寝ちゃったりしたら、
 いくらでも先生を困らせることができるんだよね。
 
 なにかものをつくって、使ってほしい買ってほしい人は、
 もちろん「口説く側」に立っている。
 使う人、買う予定の人、買わないかもしれない人は、
 みんな「口説かれる側」に立っています。
 「口説かれる側」が「ぜんぜん、いらなーい」と言えば、
 「口説く側」は、ぐんにゃりしちゃいます。
 
 文字通り、恋愛にも、
 「口説く側」と「口説かれる側」があります。
 元祖「口説く」ですよね、恋のシチュエーションは。
 これも、「口説く側」がどれほどがんばっても、
 「口説かれる側」の「ごめんなさい」で終っちゃう。

 ものすごい不平等な関係にも思えますよね。
 逆に「口説かれる側」って、万能? 無敵?
 とにかく「いやだ」「きらい」「のらない」ってね、
 言ってさえいれば、それで済むんだもの。
 
 どこで、「口説く側」と「口説かれる側」に分かれるか?
 それは「やりたいこと」があるかないか、によってです。
 やりたいことがある人が、「口説く側」に立つしかない。
 知恵や知識を教えたい先生、
 つくったものを買ってほしいい人、
 好きな人といっしょになりたい人、
 なにかの企画を思いついて実現したい人、
 みんな動機や目的のある人なんです。
 それを実現するのには、相手を口説かなきゃならない。
 そういうしくみになっています。
 たいへんですよ、「口説く側」に立つというのは。
 でも、そのめんどくさい側に立たないと、
 ただ待ってるだけの人生になっちゃうんですよねー。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
夜になったら、会社でカレーをつくる予定なんですよねー。

ほぼ日刊イトイ新聞 今日のダーリン 20111219

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・「みんな」ということばは、むつかしいなぁ。
 子どものころに、なにか買ってほしいものがあると、
 親に「みんな持ってるんだよ」と言ったものだ。
 そしたら親は、「みんなって、何人?」と聞き返す。
 子どもの浅知恵で、少々水増しした人数を答えても、
 「クラスの半分以上が持ってたら、買ってやる」
 というようなことで、お終いになってしまうのでした。
 
 「みんな」が、どうしているか?
 そればっかりを考えて終っちゃう一生もありそうです。
 赤信号を渡るのも、なにか大きな買い物をするのも、
 「みんな」がやっていることなら、いっしょにやる。
 じぶんでは「こうしたい」と思うことがあっても、
 「みんな」が賛成してくれなさそうなので、あきらめる。
 こんな文を書いているぼく自身だって、
 「みんな」がどう思っているか、考えてばかりいます。
 それでもやる‥‥かどうか判断はするけれど、
 「みんな」のことを考えないでいることはないです。
 
 「みんな」を考えたり、「みんな」を感じていることは、
 なんとなくの「安心」につながるかもしれません。
 ただ、「みんな」の元になるのは、
 ほんとうは「わたし」や「うち」のはずです。
 何人、何組もの「わたし」の考えや思いがあって、
 それらの総合として「みんな」があるはずなのですが、
 知らないうちに、「みんな」が先にあって、
 「みんなの考えを知ったら、それに従う」
 というようなことになりやすいんですよね。
 つまり、じぶんの頭が動き出す前に、
 「みんな」の考えを探ることばかりしてしまう。
 そして、「わたし」のひとりもいない「みんな」が、
 正体不明のまま、ものごとを動かしていくわけです。
 
 いまごろですが、また言っておこうと思います、
 じぶんのためにも、しつこくね。
 「じぶんのリーダーは、じぶんです」
 他の人の意見を聞くことはあっても、
 誰かが無理に決めてしまうなんてことはない‥‥。
 どういう判断でも、じぶんの首肯きがあって決まります。
 「みんな」なんて偉大な親分は、いないのです。
ほぼ日刊イトイ新聞 今日のダーリン

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・今年の大晦日でお別れする
 「シルク・ドゥ・ソレイユ」の公演『ZED』を、
 「ほぼ日」の読者や関係者のみんなで観ました。
(中略)
・おとなになって、いろんなことを知ってりこうになると、
 「信じる」ことが下手になります。
 的確に疑うことは、とても大事なことなのですが、
 「不信」で人と人をつないでいる糸を切ってしまって、
 それでもなんとかせねばと苦しんだりする。

 極限の危険を扱っているサーカスの人たちは、
 じぶんと仲間を「信じる」ことを、たぶん、
 練習の積み重ねで身につけているんじゃないかなぁ。

ほぼ日刊イトイ新聞 今日のダーリン 20111212

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・人生の中盤以後に、ぐっとシフトチェンジして、
 さらに力強く走り出す人がいます。
 徐々に枯れていくかと思ったら、
 新しいなにかを身につけて、
 もうひとり分の人生を生きていくような感じ。

 すぐに思いつく人として、クルム伊達公子さんがいます。
 若いころのような体力がなくなっていく年齢で、
 それまでよりも成績を上げていったのですから、
 それを奇跡のように感じる人も多かったはずです。
 でも、あれが奇跡であるはずはない。
 一試合だけ勝ったというようなことではないのですから。
 じぶんの身体か、じぶんの方法かを、
 つくりなおしてしまったのだと思うんです。
 それまでのじぶんを変えて、進化する。
 できると信じて、修練を積んでいくわけですよね。
 いやぁ、かっこいいなぁ。
 たくさんの人たちは、強くなっていること以上に、
 決意とともに変わってきたということに、
 感動したんだと思います。

 伊達さんのことは、いまは誰でも知っていますが、
 実はね、他にもいるんですよ。
 それまでのじぶんを壊してしまうほどの変化をして、
 生まれ直すようなことをしている人って。
 それが、見えにくいからわかられないんですけれど、
 一線で長い間走り続けている人たちって、
 だいたいが、そういうことをした人じゃないかなぁ。
 なぜ、じぶんの組立て直しをするのか?
 どうして、前のじぶんを壊すほど変化しようとするのか。
 それぞれに理由はあるのだと思いますが、
 ぼくなりに、乱暴に言ってしまえば、
 「そのままでいることが、怖い」からだと思うんです。
 そのまま衰弱していくには、
 人生後半の時間は、あまりにも長い。
 その長い時間をつまらなく過ごすことが、怖い。
 だったら、どれほどつらいとしても、
 大変化をしたほうがいい‥‥と思うんじゃないかなぁ。
 どうでしょう、年齢高めの読者の方々?
 ぼくにもある時期、薄くその気持ちはありました。

ほぼ日刊イトイ新聞 今日のダーリン 20111207

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